故旧忘れ得べき

 高見順の「故旧忘れ得べき」(1935年第1回芥川賞ノミネート作品)を3日間で読了した。故旧忘れ得べき、とは、古い友人たちをどうして忘れられようか、という意味。小説の最終章で、この言葉が歌のタイトルであることが判明する。その歌とはかの有名な「蛍の光」。
 原曲は、18世紀後半に生きたロバート・バーンズという人が、古いスコットランド民謡に詩をつけたもので、その詩には友人たちと一杯やる楽しさが詠(うた)われている。昔の仲間たちのことを懐かしむ歌が、日本では別れの歌に変身したわけだ。なので、高見順の意訳の方が、蛍の光の硬い詩より原詩に忠実なのだ。
 こんな詳しく紹介したのは、気を入れてこの本を読んだからではない。つまらなくはなかったが、下世話で猥雑な筋書きの部分は文字面をかすめるように読んだ。何としても途中で投げ出したりせず、最後の一文までたどり着き、М新聞に掲載された荒川洋治氏の書評の感動を追体験したかったから。感動の程度の差はあったと思うが、私も感動した。
 不思議なのは、読み終わってみると、30代と思われる男たちと女が絡む話が、妙に懐かしく愛おしくよみがえってきたこと。男たちときたら、昭和初期の左翼運動に首を突っ込んだが、国家権力など様々な圧力によって屈してしまった虚無感とかで、支離滅裂な生き方をしている。それに比べ、女たちは現実社会からこぼれ落ちそうになっても、なにクソと足を踏んばって、男を頼りながらも辛抱強くしたたかに生きている。
 私も一応、高校時代の抵抗運動からの転向組なので、本の中の男たち同様、その後の人生街道の途上、ずいぶん恥ずかしい真似をした記憶がある。しかし、10代の時分の思想闘争とはいったいどんなものだったのかと冷静に考えてみると、私の場合は、親の束縛に対するささやかな抵抗にすぎなかったと思う。なので、それに敗れたからといって、運動から転向したといった大げさなことではなく、ただ力不足だっただけ。「故旧」の中にもそのような男たちがいたのかもしれない。
 過去の世の有名人の中にも転向組がわんさかいる。若いころ共和主義者だったナポレオンは皇帝になることを切望するようになるし、社会主義者を標榜していたはずのヒトラーは人民を捨て、典型的なレイシズム(人種主義)信奉者になった。プーチンの思考様式も似たようなものか。社会主義の中に育ち、巧妙に立ち回ったあげく、君主制を目指すとは‥‥。これらはヒト精神の退化現象としか思えない。
 高見や荒川、そしてバーンズが言うように、「ただ黙って向かい合って座っているだけでも自ずと心が暖められる」友人たちと過ごす時間は長く続かない。高見がこの小説を書いたころとは、その数年前に満州事変が起きているし、中国と直接戦闘を開始する盧溝橋事件の前夜なのだ。彼らは、転向してもしなくても、不本意な戦争のただ中に送られ、多くは非業の死を遂げたのだ。
 私たちは、高見たちの生きた時代の切迫感とはほど遠い位置にいる。コロナ禍やウクライナの戦争に心を痛めているものの、そのうち収まるさ、と他所事に思っているところが、私自身、多少ともあるような気がする。再びつらい時世がやって来るかもしれないのだが、月々日々に身の振り方を考え続けるのは確かに至難なのだ。