もう一度「初期仏教」

 変な言い方だが、「初期仏教」(岩波新書)2冊目を読了した。普段から、本を読まないで本を批評したがるような、本読みの片隅にもおけない私。なくした本を買い直してまで読んだのは生涯初だ。

 この本、仏教用語で固められた極めつけ硬派の内容なのだが、ずっと昔の漢文の勉強が多少役立ったのか、思いのほか楽に読めた。最後まで読まなければ損をする本があることを改めて教えてもらった。
 ブッダ(釈迦)については、単なる宗教者でなく、ヒトビトの意識を神話の世界から解放した革命家に比定する考え方がある。この本もまた、初期の仏典資料の中から、各教団諸派が共有するブッダの肉声と思われる部分を根気よく拾い集めることによって、ヒトと社会を変革しようとする彼の並々ならぬ決意といったものをあぶり出している。
 初期仏教では、ヒトに備わっている、認識器官の六処(識)(眼、耳、鼻、舌、身、意)や、身体の構成要素である五陰(蘊)(色、受、想、行、識)は、いずれも私という主体のものではなく、ただの器官、作用にすぎない。したがって、ヒトの生とは、確たる実体があるのではなく、単に渇望や執着によって作り上げられた仮の姿(五陰仮和合)であるとする。
 このように、何となく乗り気ではないような口ぶりで、生への執着による自己の再生を一旦は認めながらも、ヒトが最終的に目指すところは再生することでなく、「涅槃(ねはん)」「解脱(げだつ)」「苦滅」だとする。これらのことは、苦にどっぷりつかった自己の否定、再生を拒否することなのだ。物質が消滅すればその痕は何ひとつ残らないとする唯物論とまったく同じではないか。
 こうしてみると、ブッダの再生論は、自己の消滅に至るまでの経過措置だと思わざるをえない。これまでの原始仏教のイメージ、いわゆる灰身滅智(自己を完全に消滅させること)によって苦から離脱することとは、後の世に、在家信者の中から生まれた大乗仏教との対比のため強調されたイメージだと私は思っていたのだが、そうではなく、仏説の究極の姿そのものを表していたのだ。
 繰り返しになるが、解脱とは、完全に執着という束縛から離れ、苦を超越することで、出家、在家を問わず、この境涯に達することが可能だとされる。ただし、解脱した在家は通常の生活に耐えられなくなり、即座に出家するか死没すると考えられた。
 では、その者が解脱したかどうかどのように決めるのか。文献では第三者でなく自己申告で決まるようだ。ブッダに生涯つき従ったとされる多聞第一のアーナンダ(阿難)は、ブッダの死後に行われた仏典結集の間際にやっと解脱したとされる。余談だが、仏典結集には解脱した出家しか参加できなかったので、もしもアーナンダが欠席したなら、上座部に伝えられた法と律はかなり違ったものになっていたかもしれない。
 在家の人々によって継承されて、紀元前後に生まれた大乗経では、仏の涅槃とはあくまで仮の姿であり、仏はいつの世にもどんな所にも常住する、と説いている。この考え方は何だかやさしさにあふれているが、ブッダ自身はどうもそのようには考えてなかったようだ。