1年半ぶりの京都

京都から帰って、瞬く間に1ヶ月近くなる。どんなに時が早く進もうと、自らの残年月を数えてはいけない。残念な気持ちになるだけだから。

 神戸空港に降り立った初日、夜までたっぷり空き時間があったので、気温30度のカンカン照りの中、電車とバスを乗り継いで、ようやくいかつい建物の前にたどり着いた。正門のごつごつした巨大な石柱に、白鶴美術館という名前が刻まれていた。それを目にしたとき、危うく40数年前、京都の狭い自室で脂汗を流しながら古代の漢字学を勉強する自分に戻ってしまいそうな気分になった。この美術館は、知る人ぞ知る、中国のいにしえの文物を中心に収蔵。なかでも数千年もの時代を経てきた大量の青銅器の現物を、大事に保管している。それらの多くには銘文(金文)が鋳られている。 
 
 ちょうど中国の宋、明代の陶磁器コレクション展の開催中で、重要文化財がところせましと並んでいた。写真は洛陽出土の西周時代の酒器、象文卣(ぞうもんゆう)、象文尊(ぞうもんそん)。器内に50文字の銘文があるという。残念ながらその他の青銅器はお蔵の中だった。
 その日は、岡崎公園の京都ロームシアターで開催中の京都合唱祭を聴きに行くことにしていた。写真は合唱祭中日のビールパーティーの模様。重い荷物に閉口し、回り道してホテルに寄ったため、会場到着が予定よりかなり遅くなった。ようやく受付にかけ込んだのだが、合唱祭に出場する同級生のTが送ってくれた招待券を忘れたことに気づいた。その旨、受付の女性に告げたら、券なしで入れてくれた。
 Tの合唱団の名前も出場順も知らなかったので、明るい舞台を心もとない気分で見上げるばかり。とうとう、この日のトリをつとめる合唱団の番に。大きな合唱団だ。私は一昨年、小樽の男性合唱団の発表会に行っている。そのときの指揮者の容貌をはたと思い出した。やはりTの合唱団だった。
 その後、ビールパーティー会場で、ようやくTと再会。京都時代から数えて40数年間の思い通りにならない人生や、闘病のつらさなど、互いの打ち明け話を酒の肴にして、缶ビール3本を1時間余りかけて飲み干した。明るい話をしたのではなかったのに妙に爽快な気分だった。
 翌日は美術館巡り。細見美術館の若冲、国立近美の河井寛次郎、樂美術館を丸一日かけて探索。若冲展は墨絵が多く地味な感じだった。樂茶碗はどれも樂と言えば樂、とくに目を引かれるものはなかった。河井寛次郎は圧巻だった。これほどのバリエーション豊かな作品を一人の人間が生み出したとは。彼は数千、いや数万本もの手を持つ卓越した陶工なのだ。写真は岡崎公園を練り歩く一団、2日目の合唱祭に出演するらしい。
 3日目は書店訪問。一乗寺や御所近辺、寺町などにある個性的な店を数件回ってみたが、暑さのため力尽き、早めに宿に戻った。
 その夜は姪夫婦との会食。写真は先斗町の居酒屋前。京都のおでんを食べたかったので、私がその店に決めた。料理はどれも美味かったし、3人の話も盛り上がった。
 ついに最終日。京都は朝から小雨まじりの天気。暑くはないがじっとりしている。早めの列車で京都を離れ、草津線、関西本線を乗り継いで、深い山野をいくつも越えて、目的地の四日市へ。中部国際空港へ向かう列車の発車時刻まで2時間余りしかなかった。同級生のKとは10年ぶりの再会だったが、駅前のレストランで昔と同じように語り合った。
 帰宅してからだった、思い切り後頭部を殴られたような痛みを感じたのは。遠回りしてKと会ったにもかかわらず、昨年末亡くなったOのことをまったく話題にしなかったことが脳裏に突き刺さった。京都の初日の合唱祭で、TとOの話をしたのになぜ。
 私はKにそのことを何と説明したらいいか悩んだ末、メールを送った。
「この度、貴兄にぜひ会いたいと思ったのは、間違いなく、Oのことがあったからなのですが、今回の2時間の中では、すっかりOを失念していました。なぜなのか整理がつかないままメールを書いています。」
 ただちにKから返信があった。
「小生もきっとOのことが話題になるに違いないと思っていました。でもそうならなかったのは、たぶん貴兄とOと3人で語り合うといった場面が学生時代になかったからじゃないだろうか。」
 私にはこれ以上弁明する気力が残ってなかった。京都旅行の疲れは未だに抜けない。