記念日ぎらい

 今年は松の内が明けきらないうちから大きな行事が続いた。6日には1泊で郷里の中学校のクラス会に出席。先生を含め14人中、半数の方々とは半世紀ぶりの再会。夜中の2時まで飲み歌いあかした。ふらふらで帰宅した翌日は町内会の新年会があり、日本酒を浴びるようにいただいてしまった。1日置いて親子お楽しみ会に世話役で出席。
 問題は、この数日の間に家人の誕生日がはさまっていたこと。一連の行事が始まる前はちゃんと心に留めてあったのだが、奥にしまい込みすぎたのか、当日の夜遅くなってから思い出した。
 それにしても、どうして記念日という大事な日付をうっかり忘れてしまうのだろう。誕生日、結婚記念日や先祖の命日にとどまらず、クリスマス、バレンタインデーといった、世間に知れ渡っている記念日さえすっかり忘れることがある。
 家人らは、たった年1度のことをなぜあっさり忘れるのか信じられない、とおっしゃるが、1年待てばまた来るのだから、1度や2度忘れたことに目くじら立てなくてもいいじゃないか、といった身勝手でおちゃらけな弁明をするのはかえって火に油なのでご法度。
 なにしろ家人は、初めての結婚記念日の出来事はもちろん、自分たち以外の様々な記念日も憶えているようなのだ。ところがこの私ときたら、大きな声で言うとハレーションが大きいのでこそっと書くが、記念日とは当日のことを忘れないためにあるもの、極端な言い方をすると、当日の出来事を記憶に留めてさえいれば、その後の記念日など必要ないとドライに割り切る性格なのだ。
 ほんとに困ったものだ。どうしてこうなるのかと考えてきたが、いまだに自分の傾向性を改められる自信はまるっきりない。改めようと思っていない? からなのか、過ぎし日の数多くの失敗の反省を、未来に生かせたことがない。世の中から記念日がなくなれば、気持ちが楽になるのだが、きっとそうはならないだろう。