縄文人の系譜


 つい最近のこと、自宅近くのMBセンターで、縄文人の起源について講演があった。
 その日、いくらか黄色味がかった原生林に向かって車を走らせると、住宅や公立の施設が立ち並ぶ一角に、MBセンターの門柱が現れた。門をくぐっても建物の影は見えず、公園の一角に紛れ込んだかと勘違いしそう。
 講演者は先史人類形態学のM教授。100名収容の会議室に5割増しの聴衆がひしめき合い、立錐の余地もない。こんなひっそりした場所でやろうとしている、こんなマニアックなテーマの講演会に、これほどの大人数がこっそりやってくるとは。
 先日のNHKで、核DNA分析の最新データに基づいて、大陸から列島へ流入した人類に関する番組が放映された。列島の両端にいくほど縄文人の色が濃くなることなど、ずっと前から想定されていた仮説が学術的見地から証明されるのを見るのは実に痛快だった。おもしろすぎて録画したのを3回も見てしまった。
 今回の講演は、人骨の発掘調査の成果を中心とした話だったので、NHK番組よりさらにビジュアルで衝撃的なものだった。様々な人類の個性的な顔を思い浮かべながら、10数万年にわたる人類の歴史の旅を堪能できた。
 講演の概要は次のとおり。
 アフリカで誕生した人類のグループにはいくつかの系譜があって、アフリカから複数回にわたって北への拡散を試みたが、いずれも幾多の試練に遭って挫折したらしい。およそ5万年前、最後にアフリカから出発した人類の行き先は、ヨーロッパ大陸へ、ユーラシア南部を通って南アジアへ、ユーラシア北部経由でアジア北東部へ、と大きく3つのパターンがあったとされる。このうち南アジアへ向かったグループは、4万年ほど前を前後とする年代には、現在の東南アジア、ニューギニア、オーストラリア大陸やメラネシアなどに分布したことがわかったという。2万数千年前から7千年前(マレーシアなどでは4千年前)まで、広く東南アジアに分布していた採集狩猟民のホアビン文化や、沖縄本島や石垣島で出土したおよそ2万年前の人骨はおそらくこれに連なるもの。
 そのことはM教授たちによる、ネットワーク系統樹を使った人骨の形態分析でも証明される。南アジアに最初に入ったスンダ・サフール系の人々と、東南アジアやオーストラリアのグループはいずれも同系、中国南部からおそらく周口店(北京付近)までをも含む地域、さらに日本の縄文人もこの系統に極めて近いという。では、その人骨の容貌とは? 現在のパプアニューギニアの人々の容貌に近似しているのだ。
 ところが、今からおよそ4千年前になると、この人骨が劇的に変化する。東南アジアのベトナムやタイの青銅器を持った水田農耕民の遺跡から発掘された人骨は、北東アジア・シベリア系の色が濃い集団だった。つまり彼らは、ニブフやブリアート、バイカル新石器時代人ときわめて近い人々。おそらく、北東アジアを南下してきた集団が、中国本土から東南アジアにかけてコロニーを作ったことが想定される。後世、モンゴロイドと称される人々は彼らであった。
 北東アジア・シベリア系の集団が、ユーラシアの北東までどんなルートを移動してきたかまだ確かめられていない。たぶん、カスピ海の北岸を通過してバイカル湖に到達し、そこからアメリカ大陸を目指したグループと、アジアにとどまったグループに分かれたのだろうという。そして、4千年前ころの気候変動に伴い、彼らは黄河流域の雑穀栽培文化や長江流域の水田農耕文化を取り入れながら、大陸を南下したのは間違いないところだろう。これら農耕民の移動は日本列島の弥生人にも当てはまる。彼らの骨の特徴は中国南部、東南アジアの農耕民によく似ているという。
 ところで、稲作は長江流域で8千年ほど前に始まったとされる。その担い手は、中国の文献で南人と呼ばれる人々であろう。南人とは、苗族(現在の貴州、雲南などのミャオ族など)で、南とは銅鐸などの楽器のこと。彼らがこの楽器を農耕儀礼などに使っていたので、殷人からこう呼ばれた。一説には、北方での殷との戦いに敗れ、南方に去ったとされる。なお、中国西方の羌人(おそらく現在のチベット系)も、殷との間の軋轢に関する神話を残している。 
 中国において発掘が続けられている夏王朝は、神殿を持つ都市国家の形を備えていたと推定されていて、その成立時期がちょうど4千年前ころと言われている。まさに、このとき中国本土の種族が入れ替わったとすれば、考古学と文献の一致をみることになる。
 M教授は、1週間後に中国で同じ話をするとのこと。中国の先史時代に今の漢民族はいなかったという話をして、中国国内にセンセーションを巻き起こさないか不安だという。
 私みたいに興味本位でブログ記事を載せる者や、先生の後釜を狙う研究者はたくさんいるので、心配ご無用と送り出したのではあるが。

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