光と影の50年

最近、ジョニ・ミッチェルの曲「青春の光と影」(邦題)のメロディが頭から離れない。記憶の片隅にインプットされている不完全な音律は、屈託のない、のびやかで艶がある若いアルト。聴き入るうちに、リリースされた半世紀前に引き寄せられそうな気持ちになる。50年の間、多くの歌手のカバーした曲を繰り返し聴き続けたので、頭の奥にある音源がジョニその人のものなのか、それとも他の人の声なのか、私には確認できないが。
 この曲の原題は「Both Sides Now」で、直訳すると「両面から眺めると」とか「別の見方をすると」といった意味になるのだろう。「光と影」の邦題を考えつくとは神のなせる業だ。
 ところで、せっかく仕事から足を洗ったのに、残念なことがいくつもある。
 まず、朝遅くまで寝てられないこと。これまで通りの時間に、はなが、ベッドのすぐ横で父しゃんをじっと見つめる気配がする。ちょっとでも体を動かしたなら、はなの思うつぼ。父しゃんの手や足を入念になめる。それでも起きなければ、父しゃんの腹の上によじ登る。この馬乗り、いやネコ乗りスタイルは先月までの13年間、一度もなかったこと。今は毎朝、父しゃんの体を優しくモミモミするのが日課になってしまった。はなにとって、これまで家に半日しかいない父しゃんは外の人だったが、ようやく家の人の親近感を覚えたということなのだろう。
 残念の二つ目。自由時間がほとんどないこと。朝起きて朝食、洗顔、排〇まではこれまで通り。午前中は、昼食の準備、掃除、ごみ捨て、家庭菜園いじりなどの家事に追われるうちに過ぎ去ってしまう。午後になると、数十年ため込んだ様々な関係資料や本の整理など、やってもやっても終わらない。その他、自治会活動、病院、公的手続き、飲み会や、睡眠不足を補う昼寝も欠かせない。
 会社勤めしていたときは日中の時間が長すぎて暇だ暇だとグチっていた。あのころはなんと豊かな日々だったことか。それに気づいていれば、と後悔しても先には立たず。
 今は、自由時間にやりたいことがあっても我慢。何とか家にしがみつくスキルを身に着けるのが先決だ、という別の見方をすれば、三つ目以降の残念は残念でなくなるかもしれず。

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