中動態のネコたち

 2年前に白内障の手術をした右眼の調子があまりよくない。視界に薄いもやがかかり、光り物を見ると不規則に閃光が走る。思いがけない乱調に驚き、1か月ほど前になるが、手術を受けた眼科へ行った。検査の結果、視力はほとんど変化なし。人工レンズに汚れはなく、飛蚊症も軽症で落ち着いている。後発性の白内障は、水晶体の縁に多少見られるだけで問題なしだと言う。
 しかし、自覚症状は悪化の一途をたどっている。とくに、近くの事物のぼやぼやがだんだん進行し、本を読むときの顔のゆがみは日に日にひどくなるような気がしてならない。なので、最近、残念ながら本を読むのが苦痛だ。でも文字から離れては生きていけない。スマホのゲームはこりごりだ、目が回る。
 この前、漢文読めるかと聞かれて即座に大丈夫と請け合えなかったのを悔いて、「漢文入門」(前野直彬著、ちくま学芸文庫)を読み始めた。フィリパ・ピアスの処女作「ハヤ号セイ川をいく」(講談社青い鳥文庫)を手に入れて読む気満々だし、数日前は、アイヌと北方民族の熊送りのフィールドワークに関する本を拾い読みした。
 書評だってちゃんと読んでいる。最近のもので目に止まったのは、「中動態の世界・意志と責任の考古学」(國分功一郎著・医学書院)という聞き慣れない題名の本。依存症や言語の探求を通して、意志や責任のレベル(する、されるの範疇)を超えた、中動態の重要性を追求するという内容だという。
 書いている私自身さっぱりわかっていないので、以下話半分に読んでいただきたい。
 原始ヒトの生命が大自然と一体だったころは、能動態でなく、受動或いは中動態の生き方しかなかったいう理屈は、構造主義の理論や狩猟民の生活文化から見ると当たり前に思える。なにせ、紀元前まで、ヒトには自意識がなかったという説がまことしやかに流布しているし、漢字の解読により、紀元前二千年ころのヒトは自己の知覚や意識によって判断したり行動したりすることはなく、自然の声を探し求めそれだけを拠りどころに生きていたことが明らかになったのだから。 
「との」や「はな」の生活を見てきたが、彼らは本能に基づいた行動や選択を除けば、ひたすらダラダラしている。暇や金があったって、ヒトのように、几帳面に1日1月1年のスケジュール管理したり、遊びや酒におぼれたりすることはない。私みたいに物につかれたように日記をつけることなんてぜったいない。なので時間に追われない。何もしなくて十分満足だという顔をしている。これが中動態の世界というのだろうか。
「ヒトはもう、ネコの生活には戻れないのだろうか」
 ふとこう書いて、不可思議な気分に襲われた。ネコは狩猟を生業とした生き物だ。ヒトも原始ではそれが唯一の生きるためのスキルだった。だったら戻れないわけがない。後天的に手にした言葉や祭儀、贈与、収賄、文字・書籍、哲学などを捨て、忘れてしまえば、よけいな意志も責任も脳裏に浮かばず、ヒト同士ぶつかり合うこともなくなると思うのだが。でも本を捨てるなんてできない。困ったものだ。