書評もどき

<マイナス25°Cの朝。初めてサンピラーを見た。でも写っていない。>

 本のレビューを書こうというのではない。なにせその本を読んでいないのだから。
 最近、ビッグヒストリー(明石書店)とかサピエンス全史(河出書房)とか、長大な歴史の記述本が相次いで翻訳された。ビッグは138億年前のビッグバンから、サピエンスは7万年前のいわゆる新人の登場から書き起こされているという。
 一方で、ある宗派の信徒の一部は、大洪水が世界を襲ったときノアの箱船に乗ることができた生物文物だけがこの世に存在すると信じているという。今では化石になった恐竜やアンモナイトなども箱船に乗ったそうなのだ。驚くなかれ、その洪水は紀元前三千年ころの出来事だという。そのころもっとも辺境のこの列島でさえ、すでに縄文の文化に浴していた。もちろんマンモスはすでに死滅していた。歴史への思い込みは理性を滅ぼす。
 上記二冊の本は、そんな次元をはるかに凌駕し、きわめて学術的見地から書かれたもの。でも、ヨーロッパ的歴史観にすべての事象を押しこめようとするところは、キリスト教徒の箱船搭載文明論と基本線は同じに見える。
 彼らの言うように、あらゆる社会の起源は果たして一点に収れんするものなのか。たしかに時間軸をさかのぼれば、サピエンス、エレクトス、アファール猿人、そして白亜紀やカンブリア紀を通って、はるか先のビッグバンに行きつくのだとしても、ある瞬間の次元や構造を切り取ってみたら、この世界は前へ進みも拡散もしていない。時間の観念なんてサピエンスの錯覚であり、現世とは、脈絡なく変化する一瞬一瞬を積み重ねたものにすぎないと言っている学者さえいる。
 NHKの100分de名著で、レビー・ストロースの「野生の思考」が中沢新一先生によって紹介された。今そのテキストを読んでいる。レビー・ストロースには、これまで、「悲しき南回帰線」(講談社学術)、別の訳が出たので再度「悲しき熱帯」(中公)に挑戦したのだが、二度ともはね返された。「野生の思考」(みすず書房)を書棚に探してみたら、思いがけず「構造人類学」(みすず)が出てきた。本を抜き取ると、ほこりがビッシリこびりついていた。明らかに読んでいない。
 フランス人の思考回路というのは、日本人の頭の回線の十倍くらい太いと思う。その分、必要かどうかわからないが多くの観念が流れているので、口げんかではとても太刀打ちできる相手ではない。でも、両国人はどこか似ているところがあるのではないか。
 ストロースが言うように、記述された歴史を持つ閉鎖的で自己中心的な文明は、別の歴史や神話を生きるヒトビトを地球上の至る所に置き去りにしてきた。しかし、それらの忘れられたような生命体はきわめて精緻な上に、なぜか互いに類似した社会・精神構造を保持して、今もなお生きながらえている、いわゆる野生を保ちながら、と私も思う。(2017.2.2)